

染物とデザイン
少しマニアックな話かもしれない。そもそものわたしのデザイン専門分野は商業的な印刷物のデザインである。 染物のデザインをする際、紙と同じ感覚でデザインしてしまうと、どうにも違和感が生じる。 それは何故かと、色々試してきた上で、大まかに理由を考えてみたところ、印刷物は平面的で、布は立体物と考えてデザインを起こす必要があるということだと思う。 先に断りを入れておくと、染色の分野も今は様々な方法があるので、ここでは当店の方法に限った話にしておきたい。 布を染めるということは、生地の裏側にまで色を通すということ、つまりは構成している繊維の中まで色を浸透させるということになる。 それにより何がどうなるかというと、布の種類にもよるが、薄地の布わずか厚さ0.3ミリ程の中でも、人の目はとても優秀にできていて、浸透した色を奥行きとして感じることができ、よく深みがあると表現するが、文字通りそのように感知ができるからだと思っている。 着物は写真で見るのと実物とは違うことがよくあると言える。それは布が色を含んだ奥行きまでは写真で写しとれない部分があるからだと思う。 また、


紺屋の明後日
「紺屋の明後日」とか「紺屋の白袴」ということばがある。 紺屋とは染物屋のことで、両方ともルーズな感じの意味で私にもかなり当てはまってしまう。 ルーズさの原因は私の性分もあるが天候による部分もある。 引き染めの作業は気温と湿度にとにかく左右される。 暑くても寒くても、湿度が高くても低くても良くない。 人が過ごしやすい位が染めにも丁度よい。 ある程度は温度、湿度、染め方を調整してかかるのだが予定通りに進まず遅れてしまう事もままある。この辺りが「紺屋の明後日」の元だと思う。 昔ながらの材料ややり方は特に天気に左右される。 現代の技術ならやり方や天候などの作業環境も数値化データ化して適した環境に制御することなどもできるのだろう。 ただ手仕事は季節などに応じてそれぞれの職人が言葉で説明できない、数値化もできない「勘」でやる部分があるから一見同じ様なものでもそれぞれの個性がでて、面白みの一因になるのだ。 勘が外れて失敗する事もあるが失敗したと思ったものが意外と面白く、新しい柄になったりする事もある。 浴衣の茄子柄や、手ぬぐいの蓮の花は、そんな中から出来上がっ


暖簾をくぐる
生まれた頃から着物に囲まれ過ごしてきた夫と比べると、わたしは真逆で、30歳を越えるまで日本の文化に意識して触れてみることなく過ごしてきた。 20代は海外への憧れもあり、面白いと感じたのは違いがわかりやすい異文化だった。その頃に少しだけ海外での生活も送ったけれど、海を渡ってからはじめて自分の生まれ育った国に興味を持ったのだと思う。 そんなよくありがちなエピソードの先に、日本の文化のしかも着物のことを考える今の日常がある。 ドメスティックなことが実はインターナショナルだったりするのだと思う。 着付けを習ってまもなくに小笠原流礼法と、その中のご縁でいけばなの教室に通い始めた。 日本の習い事に触れてみてはじめて、表面に現れる形は違えど、どちらも相手を思いながら形を作るということが共通していると感じた。日本のものづくりにも当てはまるところがあると思う。 奥ゆかしさはわかりにくさでもある。深く触れてみないと分からないことが多い。 わかりにくいものや、時間がかかるものは好まれない時代にあって、触れることすら敬遠されてしまいがちだけれども、 あくまで自分の好みと


目印
幼い頃よく迷子になった。 私の兄は連れて行ってくれるのだが連れて帰ってくれないのだから迷子になるのもしょうがない。 2,3歳の頃家族旅で訪れた飛騨高山の朝市で迷子になり、泣いていた私はパトカーに乗せてもらい、何の手がかりもない中、家族を探してもらっていた。 私の父はこだわりのつよい人で当時の車の両側面にでかでかと自分のマークを塗装していた。 しばらくパトカーで巡回してもらっているとその父のマークが目に飛び込んできたのだ。 私はあの車が父のものだと叫んで無事合流できたのだった。 なかなか主張の強い車だったがあの時はあのマークがあって本当によかったと思った。 文字すら読めない幼児でも瞬時に識別できる印。 家紋の始まりもこのような事であったのだろう。 平安時代は貴族が牛車や持ち物に、戦国時代には武士が甲冑や旗に、商家では奈良時代辺りから品物に印をつけた。 初めは簡単な印だったが、身近な動植物や気象、道具などをモチーフにして美しく整った家紋ができていった。 江戸期には庶民も家紋を持ち、数が増え、他の工芸や文化と同様にこの時期に家紋のデザイナーである紋章上


春ははじまり
室礼(しつらい)という好きな言葉がある。言葉の響きが綺麗だし、字面を見ても背景に澄んだ空気みたいなものを感じられてとても好ましい。 意味は簡単に言ってしまうと、準備をするということなんだけど、もう少し丁寧な説明になると、おもてなしの心を込めて形をつくり、人を迎える準備をするという意味が出てくる。 自分の気持ちを目に見えないものから目に見えるものに置き換えるには、季節感というキーワードは欠かすことができないと思う。 わたしの好みは、あまり艶やかなものよりは、道端に静かに咲いている野の花のような存在がとても良いと思うけど、室礼となると、まずはその場に似合うように調和を取るということが大切だと思う。 こだわっていると言うと、こだわるゆえの強さが出て来すぎてしまい、ちょっとした優しさみたいながものが薄れてしまう気がする。 何とはなしに良いと感じるようなものが、実はこだわっているんです、というような形の取り方を見つけて行けたらいいなといつも思っています。 春はいつも始まりの季節。 西染物店としての活動を二人で始めたのが、2015年の春で、今年で7年目を迎え