

着物考 そのニ 沼地
これから着物を着てみたい方に先に断りを入れておくと、着物は沼であると申し上げたい。 最初は恐る恐る足を踏み入れても慣れというのは恐ろしい。気がつくと足元どっぷり沼にハマっている。 ひとつには自分好みを見つけ出すには時間がかかるというのがある。洋装の好みはわかっても、和装となると、似合うと思ったものよりも、少し斜め上からなど意外性のあるものの方が良かったりすることがある。 反物であれ、仕立て上がったものであれ、実際に顔まわりに当てて確認してみないと始まらない。 まず色に関しては、種類の多さ、生地とのバランス、肌の色、目的、自分のキャラクターなどなど、選ぶのになかなかな迷い具合が生じる。 次に柄物に関しては、普段洋装なら絶対に着ないテイストのものが意外と和装であるとしっくり来てしまう場合がある。着物の妙である。 一枚の着物に三本の帯と言うが、そこに帯揚げ帯締めが加わり、まず最初の沼の入り口に到着する。 自分の経験でも、着物や帯は譲り受けたもので、小物を変えてちょっと雰囲気を変えてみようかなんてふと思うと、道明の帯締めの種類と色の多さに愕然としながらも


甲府の街
以前の「はじまり」と言う投稿で載せた古い集合写真は75年程前の甲府の連雀問屋街。中心に座っているのが初代の私の曽祖父で、祖父は当時戦争で出兵していたので写っていない。 数年前に道路拡張の為曽祖父の家は取り壊されたのだがその際発掘調査が行われ、それを見に行った。発掘されたのは器の破片やら小銭やらでたいしたものは出てこなかったのだが、地表から数センチ下の所にまわりとは異質の真っ黒い地層があった。気になり、その場にいた専門家にお聞きした所、甲府空襲で焼けた跡という事だった。 平和に暮らす日々だがそのほんの少し下には生々しい戦争の痕跡がずっと残っているということに驚きと怖さを感じた。 甲府は擬欧風の建物がたくさんある洒落た街だったらしい。太宰治も新樹の言葉の中で「きれいに文化の、しみとおっている町である」と記している。写真の後ろに写る様な町家もたくさんあったのだろう。それらが今も残っていたら着物を着て歩いてもきっと楽しい街だっただろうと残念に思う。


着物考
数年前に黒の長羽織を誂えた。 紋屋にいると言うことが大きな理由の一つかもしれないが、過去に何度も流行り廃りのある黒の羽織を、そうだと知らなければ今の着こなしに目新しく感じたということがあった。 着用する場は限られるが、一つ紋を入れて貰った。 新年や、お祝い事、何かと行事には好んでよく着ている。 黒羽織は面積も広いので、一瞬はっとするようなインパクトがあるが、準礼装というひとつのフォーマットになっているので、飽きがくるものではないのが良い。 一般的に黒羽織を着こなしていた時代には、例えば入学式なんかにはよくある光景だったようで、小紋に黒羽織をまとえば準礼装になると言う経済的な事情があったからかもしれないが、今はそんな光景がない分、敢えて選ぶことは新鮮さがあるのかもしれない。 そもそも男性の礼装だった羽織りものを深川芸者が着て名物になったとか、その後の時代に一般的に女性がお洒落着として取り入れたと言うエピソードを聞くと、その時代の装いのルールを超えてもしてみたいと思える粋な装い方であると思っている。 着物の着こなしは人それぞれに生活環境、肌の色、趣味


祝い着
我が子が生まれた時、お宮参り用にオリジナルの祝着を作った。 着物自体は小さいものなので柄は入れずぼかしのみでシンプルに、その分背紋を紋屋としてこだわろうと決め、まず日々の服の似合う色の系統から着物の地色は青みのピンク、裾には足長のぼかしを紫で入れ、背紋は定紋の周りを誕生花の待雪草で飾ることにした。 「待雪草は春一番に咲く花で花言葉が希望だなんてとても良いな」とか「花の様子がしおらしくてこんな女性になってほしいな」とか「背紋の花は3輪もすっきりしていて良いが5輪の方が華やかで人に恵まれるそうだから良いかな」などと親心を込めデザインが決まっていった。 腕によりをかけて着物を染め、紋部分は白抜きにし、父に上絵で紋と彩色と金彩を、ふっくらと柔らかい立体感を出すために数カ所母に刺繍をしてもらい仕上がった。 ただ紺屋の白袴という言葉通り自家用は後回しになりがちで結局出来上がったのは1歳を過ぎてからになってしまった。 なのでお宮参りの写真といえばまだ目も開かない子が祝着を掛けてもらって祖母に抱かれて写っている事が多いが 我が家は祝着を巻き付けたそこそこ大きな子